トップページへ
ちょっとウンチク話
函館ラーメン店の紹介
函館ラーメンのルーツ
函館ラーメン食べ歩きMAP
Comon' アンケート
幻を超えた!新函館ラーメン
函館ラーメンのルーツ
開港から始まった函館のラーメン
昭和初期のメニュー(ミス潤) 安政6年、国際貿易港として開港した函館は、内外のさまざまな文化をいちはやく取り入れた都市であった。明治末期には交通、産業、経済の中心的役割を果たし、東京以北最大の街といわれた。もちろん、食文化もそのひとつであり、ラーメンが市民の間に根ざした歴史も古い。
 開港と同時に昆布の買い付けに来函した
華僑とは、明治中頃には活発に海産物の貿易で行ききを始めたという。函館の人は彼らを広東(カントン)さんと呼んで親しんでいたという話も残っており、今も大町に残る中華会館が当時の賑やかな往来を感じさせる。現在の函館ラーメンのまっすぐな麺と澄んだスープの味わい、そして華僑との親交の歴史的背景などから、函館のラーメンのルーツは、華僑から伝わった中国南部の塩味の湯麺だという説がある。
北乳養魚業全盛期に定着した支那そば
 明治43年に開館された中華会館と同時にオープンしたのが支那料理「蘭亭」という店。北洋漁業で景気がよかった当時の函館で大繁盛していたという。この「蘭亭」のあった、函館一の繁華街、十字街周辺は、カフェーを始め、銀行やデパート、活動写真館、料亭や演舞場などが立ち並ぶ賑やかなところであった。その十字街周辺、恵比須町(現、宝来町)と呼ばれた一角の銀座通りは数百のネオンが輝く華やかさで、喫茶店やカフェー、バーなどが軒を連ね不夜城のようであったという。その銀座通りにあった「支那そば 笑福」の写真が残っていた。大判ののれんに大きく「支那そば」の支那そば「笑福」文字が見える。残念ながら右上が切れてしまって正確には確認できないが、おそらく“専門食堂、支那そば”と表記されているように思える。現存するこの写真は、昭和9年に未曾有の大火が函館を襲った翌年、昭和10年のもの。この「笑福」の隣にあった純喫茶「ミス潤」(現、宝来町22-19)に今も残る昭和7年のメニューには、ケーキやみつ豆と並んで“ラーメン(支那ソバ)/15銭”とある。当時のコーヒーの値段が10銭ほどだから、ほぼそれくらいの値段で、支那そばが味わえていたのだ。大火後は、お隣に支那そば専門の「笑福」ができたこともあり、壁の小窓ごしに「笑福」のラーメンをお客に出していたという。当時の微笑ましい光景が目にうかぶ。
当時からあった函館の塩ラーメン
 当時をうかがい知る「ミス潤」の現在の主人、川上晶氏(59歳)は、「支那そばと言えば、まっすぐな細麺と、澄んだ色をしたあっさりしたスープだった。客は皆、丼を両手で持ち上げて最後までスープを飲み干していた」と若かりし頃のラーメンの思い出を話してくれた。
 十字街を西へ進んだところにある大町は、当時、仲浜町といい、明治中頃には、豪奢を極めた「カントン屋敷」と呼ばれる華僑が軒を連ねていた一帯だった。日支貿易華やかな頃、広東さんと呼んで親しんだ華僑の味が、函館の人に伝えられたことは間違いないだろう。
そして屋台の時代へ
 十字街周辺はこの時代、幾度かの大火に遭いながらも復興を繰り返してきたが、昭和9年の大火以後は、大門通りと呼ばれる駅前付近へと街の中心が移っていった。昭和7年の「ミス潤」のメニューにもあるように、支那そばはいつの間にかラーメンとも呼ばれるようになり、昭和20年代中頃から30年の初めにかけては、たくさんのラーメン屋台や大八車を引いた流しの屋台が、大門通りのある松風町付近に軒を連ねていたそうだ。港から吹き込んでくる風が冷たい冬などは、温かいスープで食べるラーメンがことのほかうまかっただろう。北のラーメンがうまいのは、こうした風土にも関係しているような気がしてならない。現在の函館には、残念ながら屋台はほとんどなくなってしまったが、あっさりした味のラーメンを好み、寒い中もうまいラーメンを求めて食べに行くという習慣は今もしっかりと市民に根付いている。
函館のことを詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
函館タウンなび
函館の総合情報はこちら
函館ネットレビュー
函館のおススメH.P.紹介

+++ Copyright(C)2000-2009 ACCESS Inc. All Right Reserved. +++