■函館ラーメンのルーツ■

そして、屋台の時代へ
十字街周辺はこの時代、幾度かの大火に遭いながらも復興を繰り返してきたが、昭和9年の大火以後は、大門通りと呼ばれる駅前付近へと街の中心が移っていった。昭和7年の「ミス潤」のメニューにもあるように、支那そばはいつの間にかラーメンとも呼ばれるようになり、昭和20年代中頃から30年の初めにかけては、たくさんのラーメン屋台や大八車を引いた流しの屋台が、大門通りのある松風町付近に軒を連ねていたそうだ。港から吹き込んでくる風が冷たい冬などは、温かいスープで食べるラーメンがことのほかうまかっただろう。北のラーメンがうまいのは、こうした風土にも関係しているような気がしてならない。現在の函館には、残念ながら屋台はほとんどなくなってしまったが、あっさりした味のラーメンを好み、寒い中もうまいラーメンを求めて食べに行くという習慣は今もしっかりと市民に根付いている。
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